2026年7月21日、山形県警が損保会社の顧客情報約5,000件を不正取得したとして元代理店関係者4人を不正競争防止法違反(営業秘密領得)の疑いで逮捕した。被害額は約2億円。同種の「退職・転職時の情報持ち出し」は業種を問わず中小企業でも起きうるリスクだ。自社の情報が法律上の「営業秘密」として守られるには何が必要か、実務の急所を整理する。
何が起きたのか——事件の概要
2026年7月21日、山形県警は不正競争防止法違反(営業秘密領得)の疑いで、山形県内の損保代理店に勤務していた男女4人を逮捕した。4人は2024年9月、在職中に損保会社が管理するコンピューターへアクセスし、保険証券番号や契約内容を含む顧客情報約5,000件を不正に取得したとされる。
逮捕後に判明したのは、4人全員が退職後に別の保険代理店「まごころ保険センター」へ移籍していたという事実だ。前の職場では退職後に保険解約が約3,000件に急増し、それが発覚の端緒となった。損保会社と元の代理店が合計で申告した被害額は約2億円にのぼる。
この構図——在職中に情報をコピーし、転職先で顧客を引き抜く——は保険業界に限らず、IT・製造・サービス業などあらゆる業種で繰り返されてきたパターンだ。今回の逮捕は「退職者による情報持ち出し」が確実に刑事事件として立件されることを改めて示した。
「営業秘密」として守られるための三要件
不正競争防止法が刑事罰・民事の差止・損害賠償を認めるのは、その情報が「営業秘密」に該当する場合だけだ。法律上の営業秘密となるには、次の三要件をすべて満たす必要がある。
第一の「秘密管理性」は、情報を秘密として管理する意思があり、かつ従業員から見てその情報が秘密だと分かるような措置が講じられていることを求める。アクセス制限やマル秘表示のない情報は、この要件を欠くと裁判所に判断されるリスクが高い。
第二の「有用性」は事業活動に役立つ情報であることを指す。顧客リスト・製造ノウハウ・販売戦略などは有用性が認められやすいが、単なる連絡先の羅列だけでは足りないケースもある。第三の「非公知性」は、その情報が一般に知られていないことだ。公開された資料や業界誌に掲載済みの内容は保護対象から外れる。
経済産業省が2025年3月に改訂した「営業秘密管理指針」では、三要件のうち特に秘密管理性について、民事上の保護と刑事罰のどちらの場面でも判断基準は同じであることが明記された。管理体制が甘いと、被害を受けた側が訴えを起こしても保護が認められないという逆説的なリスクが生じる。
- 秘密管理性:アクセス制限・マル秘表示などで「秘密とわかる状態」を作る
- 有用性:事業活動に実際に役立つ情報であること
- 非公知性:一般に公開されていない情報であること
中小企業でこそ起きやすい「構造的リスク」
大企業と違い、中小企業では情報セキュリティの専任担当者を置けないケースが多い。顧客データをクラウドや共有フォルダで一元管理しながら、誰が何をダウンロードしたか記録が残らない——そういった環境は、転職を決めた従業員が情報を持ち出しやすい温床になる。
さらに見落とされがちなのが「退職後」のリスクだ。今回の山形の事件でも、情報の取得自体は退職前の在職中に行われている。退職時の手続きや誓約書の整備、アカウントの即時停止といった措置が徹底されていなければ、実害が発覚した時点ではすでに手遅れになる場合がある。
また「顧客名簿ぐらいは誰でも持ち帰る」という感覚を持つ従業員が一定数存在することも問題だ。組織として秘密管理の意識が共有されていなければ、後から「秘密として管理していた」と主張しても認められにくい。普段から定期的な教育と書面管理が不可欠となる。
今日から取れる具体的な五つのアクション
では、リソースが限られた中小企業は何から手をつければいいか。経済産業省が公開している「秘密情報の保護ハンドブック」や改訂版「営業秘密管理指針」を参照しながら、優先度の高い対策を五つ挙げる。
①アクセス権の最小化と記録:顧客データや技術情報へのアクセスを業務上必要な人だけに絞り、ログ(アクセス履歴)を残す設定にする。退職時はアカウントを即日停止する運用を徹底する。②情報の「マル秘」区分と台帳化:何が営業秘密にあたるかを台帳に書き出し、その書類やファイルには「社外秘」「マル秘」の表示を付ける。台帳は定期的に見直す。
③入社時・退職時の秘密保持誓約書:入社時の誓約書だけでなく、退職時にも改めて秘密保持義務の確認書面を取り交わす。競業避止義務条項を含める場合は、範囲・期間・地域を合理的に限定しないと無効になりうる点に注意が必要だ。④クラウドの共有設定の見直し:退職者のメールアドレスや共有フォルダのアクセス権が残ったままになっていないか、定期的に棚卸しする。⑤インシデント対応マニュアルの整備:情報漏えいの疑いが生じた際の初動(拡散防止・証拠保全・事実確認の順序)をあらかじめ決めておく。対応が遅れると、後の法的措置の実効性が下がる。
経済産業省の相談窓口(知的財産政策室、電話03-3501-1511)やINPIT(工業所有権情報・研修館)の中小企業向け知財総合支援窓口でも、営業秘密管理の無料相談を受け付けている。まずは自社の現状を「三要件」のチェックリストで点検することから始めてほしい。
このニュースが示すもの——「持ち出された後」では遅い
今回の山形の事件は、被害が発覚したのは退職者の転職先で顧客解約が急増してからだった。情報が持ち出された時点からすでに約1年半が経過している。早期発見ができなかった要因の一つは、アクセスログの管理が不十分だった可能性が高い。
国際的にも、2026年7月20日には台湾でTSMC元社員が半導体の国家基幹技術に関する営業秘密を中国へ持ち出そうとしたとして起訴された。台湾検察は「国家核心重要技術の対外流出をめぐる初の起訴」と位置付けており、先端技術を巡る営業秘密保護の重要性は国境を越えて高まっている。
中小メーカーや地域の中小企業は「うちには盗まれるような情報はない」と思いがちだが、顧客名簿・製造ノウハウ・仕入れ先情報はどれも立派な営業秘密の候補だ。「盗まれてから動く」ではなく、「盗まれても証明できる体制」を今のうちに整えておくことが、知財リスク管理の第一歩となる。
よくある質問
Q. 顧客名簿は「営業秘密」として法律上保護されますか?
A. 顧客名簿は有用性・非公知性を満たすことが多いですが、「秘密管理性」が最大の壁です。アクセス制限やマル秘表示など、従業員からみて秘密だと分かる管理措置が必要です。管理措置が不十分だと、裁判所に営業秘密と認められないケースがあります。具体的な管理方法は経済産業省の「秘密情報の保護ハンドブック」を参照してください。
Q. 退職時の秘密保持誓約書は必ず必要ですか?
A. 法律上の義務ではありませんが、退職後の情報漏えいを訴追・賠償請求する際の証拠として非常に重要です。入社時の誓約書だけでなく、退職時にも改めて取り交わすことで、退職者に秘密保持義務を再認識させる効果もあります。
Q. 不正持ち出しが発覚したら、まず何をすればいいですか?
A. まず情報の拡散防止(漏えい先へのアクセス権停止など)と証拠保全(ログの確保)を最優先で行ってください。その後、専門の弁護士や弁理士に相談しながら、民事(差止・損害賠償)と刑事(告訴)の両面での対応を検討することになります。初動の遅れが後の法的措置の実効性に大きく影響します。
Q. 中小企業向けに営業秘密管理を相談できる無料窓口はありますか?
A. INPIT(工業所有権情報・研修館)が全国に設置している「知財総合支援窓口」では、営業秘密を含む知財全般の相談を無料で受け付けています。経済産業省の知的財産政策室(03-3501-1511)でも相談可能です。まずは自社の現状把握から始めることをお勧めします。
出典:損保顧客情報5千件を不正取得、元代理店関係者4人を逮捕——山形県警が不正競争防止法違反で立件(2026年7月21日)


