2026年9月17日、大手化学メーカー旭化成の元社員が、半導体製造に使われる接着剤「ノバキュア」に関する情報を退職後に中国企業の関係者へメール送信したとして不正競争防止法違反の疑いで逮捕された。退職から6年後、「別件捜査」の芋づる式発覚という発端も衝撃的だ。この事件は大企業だけの問題ではない。技術力を競争優位の源泉とする中小メーカーにとって、営業秘密管理の不備は事業存続に直結するリスクだ。
事件の概要——何が起き、どう発覚したか
2026年9月17日、愛知県警は旭化成の元社員(66歳)を不正競争防止法違反(営業秘密の開示)の疑いで逮捕した。逮捕容疑は、在職中に入手した半導体製造用接着剤「ノバキュア」の製造に関する情報を記録した電磁的記録媒体を2018年の退職時に返却せず、約6年後の2024年9月、他企業の関係者にメールで送信したというものだ。旭化成は中国企業への流出を確認していると公表した。
発覚の経緯がさらに教訓的だ。容疑者の転職先企業が2024年8月、別の営業秘密漏えい事案について愛知県警に相談。その捜査過程で自宅が家宅捜索され、押収したパソコンを解析したところ旭化成の秘密情報の持ち出しが判明した。つまり、旭化成自身が通報したわけではなく、他社案件から芋づる式に表面化したのである。さらに、逮捕された元社員は複数企業の営業秘密を手元に保管していた疑いも浮上し、被害の広がりが懸念されている。
本件は経済安全保障の観点からも注目される。半導体製造に関わる素材・化学情報は、国際競争力の根幹を担う技術資産だ。生成AIの普及が半導体需要を急拡大させる中、こうした情報の戦略的価値は従来以上に高まっている。
「うちには関係ない」は通じない——中小メーカーが直面するリスク
「旭化成クラスの大企業の話」と受け取った読者はいないだろうか。しかし、営業秘密の流出は企業規模を問わない。むしろ中小メーカーは、大企業に比べてアクセス管理システムや内部監査体制が手薄なケースが多く、発覚が遅れるリスクが高い。
中小メーカーが抱える典型的な脆弱点は三つある。第一に、情報のラベリング不足だ。設計図や製造ノウハウが「社外秘」の表示もなく共有フォルダに混在し、何が守るべき「営業秘密」なのかが社員に伝わっていない。第二に、退職プロセスの形骸化。退職者のアカウント停止や機器返却確認が「口頭のみ」で終わるケースは珍しくない。第三に、秘密保持契約の軽視。入社時に締結した誓約書に「退職後の義務存続条項」が盛り込まれていない企業も多い。
不正競争防止法上の「営業秘密」として法的保護を受けるには、①秘密管理性(秘密として管理されていること)、②有用性(事業活動に有用な情報であること)、③非公知性(一般に知られていないこと)の三要件をすべて満たす必要がある。管理の実態が伴っていなければ、被害を受けても不正競争防止法による差止めや損害賠償請求の救済を受けられない可能性がある。これが管理体制整備の最大の動機だ。
経済産業省「営業秘密管理指針」が示す最低ラインとは
経済産業省は、不正競争防止法による保護を受けるために必要な最低限の水準を示したガイドラインとして「営業秘密管理指針」を公表している(最終改訂:2025年3月。英語版は2026年6月公開)。さらに2026年7月には、官民の担当者が集まり情報共有を行う「第12回営業秘密官民フォーラム」も開催されるなど、行政側の問題意識は高まっている。
同指針が特に強調するのが「秘密管理性」の担保だ。アクセスできる人の範囲を必要最小限に絞り、電子ファイルにはアクセス権を設定し、文書には「マル秘」や「社外秘」の表示を行う——一見当たり前に見えるこれらの措置が、裁判で争われたときに「秘密として管理されていた証拠」となる。指針はまた、秘密管理措置の対象者に派遣社員・役員・取引先なども含まれることを明確化しており(令和7年改訂の追記事項)、外部人材の活用が増えた現代の事業環境に対応した内容となっている。
今日から着手できる5つの実務アクション
以下は、中小メーカーの経営者・知財担当者が即日着手できる優先度の高い対策を整理したものだ。法的助言は専門家に確認したうえで、社内の体制整備の出発点として参照してほしい。
- 【情報の棚卸しと格付け】自社が持つ技術・製造ノウハウ・顧客情報を一覧化し、「営業秘密」として管理すべき情報を格付けする。すべてを最高レベルで管理する必要はなく、重要度に応じた合理的な区分けが実務的に持続可能。
- 【秘密表示の徹底】設計図・仕様書・試験データなど、営業秘密に該当するファイルや文書には「社外秘」「Confidential」を表示する。電子ファイルにはアクセス権を設定し、ログを取得しておく。
- 【退職プロセスの標準化】最終出社日にアカウントを停止し、会社支給の端末・記録媒体を確認・回収するチェックリストを整備する。「言った言わない」が生じないよう、チェック結果を書面で残す。
- 【秘密保持契約の見直し】既存の秘密保持誓約書に「退職後も一定期間、秘密保持義務が存続する」旨の条項が含まれているか確認する。なければ、次回の更新や新規採用時に盛り込む。詳細は専門家に相談を。
- 【相談窓口の活用】INPITが全国に設置する「知財総合支援窓口」では、営業秘密管理を含む知財に関する無料相談を受け付けている。弁理士・弁護士・中小企業診断士などの専門家が個別の事情に応じてアドバイスを提供する。
「特許か秘密保持か」という戦略的選択も問い直す機会に
今回の事件は、「どの情報を特許出願で公開保護し、どの情報を営業秘密として非公開のまま守るか」という知財戦略の根幹を問い直す機会でもある。特許は出願から原則18か月で公開されるため、競合に手の内を明かすデメリットがある。一方で、特許権が成立すれば第三者の使用を排除できる積極的な権利となる。営業秘密管理はその逆で、公開しない代わりに秘密として維持し続ける管理コストと流出リスクを永続的に負う。
製造プロセスや素材の配合など「実施状況が外から見えにくい技術」は営業秘密管理が有効とされやすいが、それも万全な管理体制があってこそだ。今回の旭化成事件が示すのは、長年にわたって蓄積されたノウハウが、たった一人の退職者の行動で国外に流出しうるという現実だ。「自社に営業秘密など大したものはない」という過小評価が最大のリスクといえる。
知財戦略は出願・権利化だけでなく、「守り方の設計」を含む。今回のニュースを機に、自社の技術資産が適切に「守られているか」を点検することを強く勧める。
よくある質問
Q. 退職者が持ち出した情報が「営業秘密」として保護されるには何が必要ですか?
A. 不正競争防止法上の「営業秘密」として保護されるには、①秘密管理性(秘密として実際に管理されていること)、②有用性(事業活動に有用な情報であること)、③非公知性(公然と知られていないこと)の3要件すべてを満たす必要があります。特に秘密管理性は、アクセス制限・秘密表示・アクセスログの記録といった具体的措置の実態が重視されます。詳細は専門家にご確認ください。
Q. 入社時に秘密保持誓約書を締結していれば退職後も有効ですか?
A. 入社時の誓約書に「退職後も秘密保持義務は存続する」という条項があれば、退職後も法的拘束力を主張できる場合があります。ただし、競業避止義務の有効性は期間・範囲・代償の有無などを総合的に判断されるため、専門家(弁護士・弁理士)に現在の契約内容を確認し、必要に応じて見直すことを推奨します。
Q. 中小企業が営業秘密管理の相談をできる公的窓口はありますか?
A. INPITが全国に設置する「知財総合支援窓口」では、営業秘密管理を含む知財に関する無料相談を受け付けています。都道府県ごとに窓口があり、弁理士・弁護士・中小企業診断士などの専門家が個別に対応します。INPIT公式サイト(inpit.go.jp)から最寄りの窓口を検索できます。
Q. 自社の技術を特許で守るか、営業秘密として秘匿するか、どう判断すればよいですか?
A. 製品を分解・解析されると容易に内容が判明する技術(製品構造・回路設計など)は特許が向いており、製造プロセスや素材配合のように外部から実施状況が見えにくい技術は営業秘密管理が有効とされやすいです。ただし両者のメリット・デメリットは技術の性質や事業モデルによって異なるため、弁理士に戦略相談することをお勧めします。
出典:旭化成元社員逮捕——半導体関連営業秘密を退職後に中国企業へ開示、不正競争防止法違反の疑い(2026年9月17日、愛知県警)
