「特許は早く取るもの」という常識が、静かに塗り替えられようとしている。特許庁は2026年7月1日より「標準戦略対応審査」の試行を開始した。国際規格の策定と並走しながら、審査開始を自分のタイミングで最大24か月先送りできるこの運用は、日本の特許実務に「戦略的遅延」という新しい選択肢をもたらす。知財担当者が今すぐ理解しておくべき制度の全容を解説する。
「早く取る」だけが正解ではなかった——制度誕生の背景
特許出願において、これまで日本の実務の主流は「できるだけ早く権利を確定させる」ことだった。特許庁も審査迅速化を政府目標に掲げ、2023年度には特許の権利化までの平均期間(STP)と一次審査通知(FA)期間をそれぞれ平均14か月以内・10か月以内とする目標を達成している。
だが、技術の国際標準化(ISO・IEC・ITUなどの規格策定)を同時進行で進めている企業にとって、この「迅速化」が逆に足かせになることがあった。国際規格の審議はしばしば数年単位にわたる。その議論の結果を受けて特許のクレーム(権利範囲)を最適化したいと考えても、すでに権利が確定してしまった後では原則として内容の修正ができない。
こうした現場の声を受けて特許庁が打ち出したのが「標準戦略対応審査」だ。経済産業省・特許庁は2026年6月18日に正式発表し、同年7月1日から試行を開始した。「研究開発と秘匿化・権利化・標準化等を組み合わせることで、標準化と知財の一体的な活用を適切に進めることが有効」という方針のもと、知財と標準化を戦略的に連動させるための仕組みとして設計されている。
制度の仕組み——何が、どのように「遅らせられる」のか
標準戦略対応審査の核心は、「審査請求から最大24か月後」という範囲で、出願人が希望するタイミングを特許庁に申し出て、そのタイミングで審査に着手してもらえる点にある。通常の出願では、審査請求後に特許庁が順番に審査を行うため、出願人が審査開始のタイミングを細かくコントロールすることはできない。今回の運用は、その「着手タイミング」を出願人の手に委ねるものだ。
対象となるのは「出願人自身または発明者の属する企業等が標準化活動(規格の制定・普及に向けた活動)を行っている技術に関する特許出願」に限られる。単に標準規格を使うだけの出願ではなく、規格の策定や普及に能動的に関与していることが要件だ。
また、出願人は審査官に対して、標準戦略における対象技術の位置づけ、標準と出願の関係、各出願の技術説明などを行う。審査官はこれらの情報を踏まえたうえで審査に臨む。単なる「先送り」ではなく、標準の文脈を理解した審査官が審査を担う点も、この制度の特徴のひとつだ。
- 対象:出願人(または発明者の属する企業等)が標準化活動を行っている技術に関する特許出願
- 審査着手タイミング:出願人が指定する時期(審査請求から最大24か月後まで)
- 事前手続:毎年7月に翌年度分の応募を受付。出願番号リストを特許庁に提出
- 件数管理:特許庁がテーマ(技術範囲)ごとに申請可能件数を通知
- 審査官への説明義務:標準と出願の関係・技術説明を出願人が審査官に対して行う
スケジュールと手続きの流れ——今すぐ動くべきポイント
試行は2026年7月1日に開始されたが、実際に標準戦略対応審査の申請ができる最初の1年間は「2026年10月1日〜2027年9月30日」だ。そのための応募受付は2026年7月に行われており、締め切り後に特許庁から申請可能件数が通知される流れになっている。
審査自体が新制度の下でスタートするのは2027年10月以降となる見込みだ。現在この記事を読んでいる知財担当者にとっては、「今年度の応募受付は終了している可能性が高い」という点を認識したうえで、来年度(2027年7月の応募)に向けた準備を今から進めることが重要になる。
準備のポイントは二つある。一つは自社が携わっている標準化活動と特許出願の棚卸し。どの出願が国際規格のどのフェーズに対応するかを整理しておくことが、スムーズな申請につながる。もう一つは、標準開発の進捗スケジュールと特許審査のタイミングのマッピングだ。規格審議がいつ山場を迎えるかを把握し、そこに合わせて審査着手時期を設計しておくことが、この制度を活かす核心となる。
この制度は中小メーカーに関係あるか——正直に考える
率直に言えば、この制度が直接的に関係する企業は「現在、国際規格の策定活動に参加している」ところに限られる。ISO・IEC・3GPP・IEEE等の標準化団体に委員や専門家を送り込み、規格文書の審議に参画している企業が主な対象だ。大手電機・通信・自動車メーカーが中心になるとみられる。
一方で、中小メーカーにとっても、この制度から学べる考え方はある。それは「特許出願のタイミングを、事業の展開フェーズに合わせて設計する」という発想そのものだ。これまで多くの中小企業では「とにかく出願して、早く権利を取る」という一択のアプローチが取られてきた。だが事業フェーズによっては、権利化を急ぐよりも、出願内容を熟成させる時間を確保する方が戦略的に有利なことがある。
また、将来的に標準化活動への参加を検討している中小企業にとっては、「標準化と特許を一体的に設計するという国の方向性」を理解しておくことが、長期的な競争力に直結する。特許庁は標準化と知財の一体活用を政策の柱の一つとして明確に位置づけており、今後この方向での支援策や制度整備が続くことが予想される。
「遅らせる」ことの戦略的意義——SEPを巡る国際競争の文脈で読む
国際規格の策定に参加する目的の一つは、自社技術を規格の中に組み込み、「標準必須特許(SEP:Standard Essential Patent)」を獲得することにある。SEPとは、ある技術標準を実装するために必ず使わなければならない特許のことで、標準が普及するほどライセンス収入が生まれる構造を持つ。
SEP戦略を狙う場合、規格の審議結果に照らしてクレームを精緻に調整する作業が欠かせない。規格の仕様が固まらないうちに特許が確定してしまうと、せっかくの権利が規格の必須要件から外れてしまうリスクがある。標準戦略対応審査は、まさにこのタイミングのミスマッチを解消するための仕組みだ。
中国・韓国・台湾では、出願人の希望に応じて審査開始を遅らせることができる制度がすでに存在していた。日本がこれまでこの選択肢を持っていなかったことは、国際標準化の場で戦う日本企業にとって不利な側面があったとも言える。今回の試行開始は、その構造的なハンデを埋める一歩として位置づけられる。
知財担当者が今すぐ取れる具体的なアクション
この制度の試行開始を機に、知財担当者として点検しておきたい事項を整理する。まず自社の特許出願リストを標準化活動との関連性という軸で見直すことから始めてほしい。「この特許は、どの国際規格のどの条項と対応するか」を棚卸しするだけで、SEP候補の把握と優先順位付けができる。
次に、自社の標準化活動の窓口(規格担当部門、技術開発部門)と知財部門との連携体制を確認してほしい。標準戦略対応審査は、知財と標準化が分断された組織では申請の準備すら難しい。制度を使う・使わないにかかわらず、両部門の情報共有を日常化することが、標準化時代の知財管理の基礎となる。
最後に、2027年7月の次回応募に向けて、弁理士など専門家と早めに相談しておくことを勧めたい。審査着手タイミングの設計、出願番号リストの整備、審査官への技術説明準備など、事前に用意すべき事項は少なくない。制度の詳細は特許庁の公式ページ(https://www.jpo.go.jp/system/patent/shinsa/general/hyojun-senryaku-taiou-sinsa.html)で確認できる。
- 自社の特許出願を「標準化活動との関連性」で棚卸しする
- 標準化担当部門と知財部門の日常的な情報共有体制を整える
- 標準開発の進捗スケジュールと特許審査タイミングをマッピングする
- SEP候補出願を特定し、審査タイミングの設計を弁理士と相談する
- 2027年7月の次回応募に向けて、今から出願番号リストの準備を開始する
よくある質問
Q. 標準化活動に参加していない企業でも使えますか?
A. 利用できません。対象は「出願人自身または発明者の属する企業等が標準化活動(規格の制定・普及に向けた活動)を行っている技術に関する特許出願」に限定されています。ISO・IEC・3GPPなどの標準化団体での活動実績が前提となります。
Q. 審査を遅らせると、特許の存続期間が短くなりますか?
A. 特許の存続期間は出願日を起点として20年です(一部例外あり)。審査着手を遅らせても存続期間の計算は変わらないため、権利化が遅れた分だけ実質的な権利期間は短くなる可能性があります。SEPとして長期間ライセンスを生み出す戦略を描くなら、この点を弁理士と事前に検討することを推奨します。
Q. 今年(2026年)の応募に間に合いますか?
A. 最初の応募期間は2026年7月とされており、現時点(2026年8月)では締め切りが終了している可能性があります。次回の応募は2027年7月が見込まれますので、今から準備を進めておくことが重要です。
Q. 中小企業が標準化活動に参加するにはどうすればよいですか?
A. 経済産業省の「国際標準化情報」ページや、日本工業標準調査会(JISC)、日本規格協会(JSA)のウェブサイトで各技術委員会への参加方法を確認できます。INPITや弁理士会でも標準化と知財の連携に関する相談窓口が設けられています。
